#10 寺島信宏さん(仙台市泉区、寺島木材)にお話を聞く

「10t車に2mの直径12cmくらいの丸太杭を一人で作ってですよ。次の日に満車にしてしまうような、それくらいパワフルな母でしたね」

昭和元年頃、ひいおじいさんの代から始まった寺島木材。その頃の主な仕事は山から丸太を買って製材所に販売する丸太の卸屋だったそうです。その後、信弘さんのお父さんも原木商として時には何百万、何千万という高価な大径木を取引していましたが、時代の変化と共に銘木の需要は減り、それに伴って機械を導入。ここ20〜30年で寺島木材が製材所になっていった流れもお聞きしました。また、東日本大震災の後には土地の区画整理や仮設住宅、土葬のための杭の注文が増えたことなど、自然災害の仕事への影響もお話しいただきました。

話し手:寺島信宏さん(以下寺島) 聞き手:建築ダウナーズ(菊池、千葉)

◯寺島木材の歴史 銘木商から製材所まで 

菊池:お名前と生年月日を教えてください。

寺島:寺島信弘と申しまして、1978年の6月20日生まれですね。出身は宮城県ですね。本籍も全部ここになります。

菊池:じゃあ生れもここなんですね。

寺島:そうですね。

千葉:寺島さんのひいおじいさんの代から始められたんですか?

寺島:私のひいじいさんとじいさんから昭和元年頃から林業に関わり始めたということを聞いておりまして、主な仕事っていうのは山から丸太を買って製材所に販売してたっていう、丸太の卸屋だったんですね。戦後...戦中か、ちょうど戦争の間だったので、木が何に使われてたかっていうと枕木とかになるんですよね。主に泉とかは栗が結構とれたんですよ昔。で、その栗の丸太とかですねそういうのが結構出回ってまして、満州鉄道とかそういうところに製材してですね。

菊池:へ〜

寺島:うちはその時、製材してなかったですけどね。他の製材やってるところに運んでそれを満州に運んでったって言うような話は聞いてましたね。

千葉:丸太の卸しをやる前は何をされてたんですか?

寺島:うちは農家です。農家兼それだったので。

菊池:じゃあ当時は農家、畑とか田んぼとか、

寺島:はいあと牛も飼ってたって言ってましたね。家畜も飼って。だから木材の方も丸太の商売をやっていた。

菊池:山っていうのは泉のこの辺りの山になるんですか?

寺島:泉だけではないですけども、北は三陸の方とか女川の方、川崎の方とかそちらの方とかもやってたみたいですね。

千葉:それってそういう伝手がもともとあったんですか?

寺島:伝手というかそういうつながりはあったんだと思います。その伝手があって商売を始めたということだったので。伝手が誰かという話になると私もさだかではないんですけどね。もうご存命ではないでしょうし、会社もないと思いますしね。うちも山持ってるのでそういう兼ね合いもあって、木伐らせてそれの販売もしていたりしたので。

菊池:なるほどそこからちょっと拡大して。

寺島:そうですね、そこの山の木だけじゃなくて他の人の山の木も売ってあげようかってこともやってたんですね。

千葉:販路を持ってたっていうことですよね。

寺島:販路は持ってたんでしょうね。今仙台の法務局のあたりは10社どころじゃないくらい製材所があったんで。西公園の方ですね。立町とかあの辺は昔いっぱい製材屋さんがあって、原木とか卸してたんですよね。うちの父も卸してたので、それこそ昭和30年から40年くらいまではおそらくその辺は製材屋があった時代なので。

菊池:去年板橋材木店さんにもインタビューさせてもらって、この辺りには製材所とか材木店とかすごいいっぱいあったんだよって。

寺島:泉区だけで製材所が12軒あったって聞いてます。それが40年前くらいでしょうかね。

菊池:40年でどんどん減っていったんですね。

菊池:ちょっとお話戻るんですけど、当時山から丸太を買ってそれを製材所にっていうのは山から木を伐る人は個人の人?会社があったんですか?

寺島:個人で木挽っていう人が結構いたんですよ。それこそ農家から同じように他の仕事として木こりみたいな方々が昔は結構いたんですよ。私もこっちに戻ってくるときにはまだいたので。

菊池:そうなんですね。

寺島:はい、個人で木を伐って農家と一緒に自分の生活のための収入を得ていた人っていうのが結構いて、兼業でやられている方が多かったですね。田んぼも作りながら伐採時期になるとその人たちは山の方に入って伐採の手伝いをしたり、個人で依頼された伐採を請け負ったりとか。

菊池:なるほど。

寺島:昔はイグネって家の周りに杉の木を生やしてるじゃないですか。あれって防風林だけじゃなくて育った頃に自分の家を建て替えようっていう意味で育ててる人たちがほとんどだったんです昔は。そのくらい木材は昔高かったんで材料が。

菊池:そうなんですね。

寺島:丸太も買えないって感じ。それくらい製材所もあるんで買うのも競争になるじゃないですか、丸太も。買うのも需要があって木がなんでも売れた時代でしたのでその時代は。ですから値段も高い分自分の家の周りに植えてそれを使おうね、っていうことで結構家の周りに杉の木がたくさんあるんですよね。

菊池:たしかに、田んぼの中でも森みたいになってるところあるなと。

寺島:昔の人はよく植えたなと思いますね。植林したのはすごいことだと思いましたね。

菊池:山から木挽さんが伐った木を、山から下ろしてきた人もいるんですかね?

寺島:昔は馬車って言ってましたね。馬で丸太を引っ張って...馬で運んでた時代もあったと思いますね車がない時代は。

菊池:製材所まで運ぶのも馬だったんですかね。

寺島:馬だと思います。ほとんど戦争の近い時代、昭和20年前後はそうなんじゃないですかね。トラック持ってる人はほとんどいなかったと思いますね。

菊池:あと木流しって、木を川で流して運ぶって聞いたことがあって興味があるんですけど、そういう話って聞いたことありますか?

寺島:はいはいはい。やっぱり広瀬川とかの一級河川じゃないと無理じゃないですか?やっぱ流れのある川。しかも真っ直ぐじゃないですかある程度。七北田川なんか屈折しまくってるじゃないですか(笑)

一同:笑

寺島:まずないんじゃないですかね。

千葉:そうですね、名取川とか広瀬川とかは聞きますね。

寺島:だから川のないところ、大倉ですか定義山なんかの方、あっちの方は列車をわざわざ作りましたもんね。電鉄の丸太を運ぶ。

菊池:木のために?

寺島:木のために、秋保電鉄か。木を運ぶための電鉄。

千葉:もう廃線になってますよね。

寺島:そうです廃線になってます。あったんですよ昔、やっぱ川がなかったですからね。

菊池:やっぱ多かったのは馬搬なんですかね。

寺島:そうですねやっぱ馬が一番だったんじゃないですかね。うちはトラック入れるのも早かったと思いますね。話には聞いてましたけど。戦争前には入れてたんじゃないですかね。

一同:え

寺島:太平洋戦争の前ですね。多分トラックは持ってたと思いますね。

菊池:満州鉄道作ってた木ってこっから日本海側に?

寺島:多分運んでそっから船ですね。

菊池:山形とかですかね。

千葉:山越えて運ぶのも大変ですよね。

菊池:なんか満州まで行ってたってすごいですねここら辺の栗の木が。

寺島:ここら辺は良質な栗の木がとれたと思うので。杉だとちょっと柔らかいのでやっぱ適材適所でわかってたんでしょうね。

千葉:製材所になっていく流れとしては、ホームページに書かれていた設立年が製材所としての開業になるんですかね?

寺島:その時くらいからそういう機械を入れ始めたっていう話ですね。もともとうちは原木商だったんでうちの父も。なんで製材所になっていったかっていうと、昔はですね100年の杉とか何百万何千万で取引されていた時代なんですよ。例えば秋田杉の巨木とか、宮城県だと欅とか何百年何千年近いものとか、何千万とかっていうふうな。一本ですよ。取引がされていた時代なんですよねその時は。そのような大経材を利用する人がいなくなってきてしまって、逆に一般材っていう200mm〜300mmくらいの丸太が建物に使われる主流になってきている。大きいものは製材すればするほど時間はかかるし高くも売れないしっていうことで製材する方向になったんですうちは。時代の流れですね。


菊池:大径木がメインの取引だった時から小さく割いたような材が主流になっていくのは何年くらいかってわかりますか?

寺島:だいたいになるんですけど、私の聞いた話では20年前までは銘木店とうたってる木材屋さんが全国に600以上はあったって聞いてます。今、それが6社くらいに減ったと聞きました。

菊池:1/100!?

寺島:みなさん銘木商でやってた会社は、やっぱそれなりに別な方向に転換してやってるんですよ。特化した木工の家具を作ったりだとか、ホームセンター的な卸しの商売に変わったりだとか、あとは製材業を大きくしたりだとか。

千葉:プレカットとかもですか?

寺島:そうですね。あとはハウスメーカーを作ったりですとか。いろんな方向にやっぱり変わっていってるので、資本があるところはそれができるんですけど、そこで切り替えることができなかったところはそこで廃業となって今減ってる原因になってますね。

菊池:なるほど。皆製材所になるわけじゃなくて木に関係するようなことにもなるし、ホームセンターにもなったりするんだと今初めて知りました。

寺島:そうですね。ムサシはもともと木材ですからね。新潟県の木材屋さんからホームセンターになったと聞いてます。

菊池:なるほど。前の大径木が主流だった時の大径木はどんな用途だったんですか?

寺島:そうですね、それこそ東建設さんとか茶室や和室、和風的な家の内装材であったり、柱材で使用するってなった時に、やはり節があるものっていうのがそんな好かれなかった時代なんですよね。製材するにしても無節のものとか目の詰んだものとか、木目を楽しむものとかそういうのが美とされている時代で大径木の方がそういった材が取れやすいんですよね。やっぱそういうものに関しては当時高い価格で取引されていたので、まあ今でも昔ほどでは無いんですけど価値は高いんですよね。ただそれを使ってくれる人がいないんですよね。

菊池:なるほど、やっぱり大工さんも美意識が20年くらいまではあったし、それを使う人の意識も違ったんですかね。

寺島:違うと思いますよ。大工さんもやはりそういう木を使ってやってらっしゃった方が私たちの父親世代、あとその下の世代は多かったですね。こういう場所にはこういう材を使ったほうが良いっていうのもわかってた方も結構いらっしゃいましたし、今の大工さんが果たしてそれできるかっていうと。木の性質とかもわかんないんじゃ無いですかね。おそらく今杉とかしか使ったこと無いと思うんですよ。ところが日本って杉だけじゃなくてたくさんあるんですよね、その樹種っていうのが。木によって扱い方も変わってくるので、性格がですね。それをわかってらっしゃる方も少なくなってるのでちょっと難しいのかなと思いますね。

菊池:なるほど。

寺島:もう一つ建売が主流ですからね今。昔は自分である程度年数かけて家を建てる人が材料選んだりした上で1〜2年かけて家を建てるっていう計画もってやってらっしゃった人が結構いたんですよ。

菊池:逆に今多い材ってどういったものになるんですかね。

寺島:弊社は松ですね。土木材の注文材をメインに製材してるんで。

菊池:じゃあ製材するようになってからは土木の仕事とかが多くなっていったということなんですかね。

寺島:その前がですね、丸太を集める力はあった方なので、丸太杭とかの杭ですね。地中に刺す土留めであったり、土留め用の丸太であったり、土地の境界を作るための杭であったり。あと昔は区画整理が盛んで農地を宅地に変える際に下水とか通すんですけど、管を止めるのにも丸太を半分に太鼓にしたのを敷いてたのでその注文も多くやってた時代もありました。

千葉:へぇ〜

寺島:その頃から丸太に加工するようになっていったんですね。

千葉:寺島さんって学校出られてからずっとここで働かれてるんですか?

寺島:あっ、違います。私は大学まで仙台で、そのあと会社に4年間務めてたんですね。なので寺島木材は、うちの母親と父親がほとんど2人で働いてたような会社でした。 うちの父と母とあと親族合わせると5人くらいかな、それでやってたんですよ。うちの母ってめちゃくちゃ働いた母で。

菊池:へぇ〜そうなんですね。

寺島:あのー、10t車に2mの120mmくらいの丸太杭を作ってですよ1人で?次の日に満車にしてしまうようなそれくらいパワフルな母でしたね。その母がやっぱり体調崩してしまって、父の手伝いする人がいなくなってしまって。廃業するかどうするかっていうところまで考えたんですけど、うちの父は木大好きでやめられなかったんですよ。決断できなくてこっち(現在の工場)に移動したんですよ(笑)。あっちで辞めとけば止まってたんですよ、ただ木が好きだし、辞められなくてこっちに移動してまで続けたので、まあ曽祖父からやってきたので私も帰ってきて、食べていけるくらいにはやっていけるなって思ったのでとりあえずサラリーマン辞めて戻ってきて今があるって感じです。最初木のこと全然わからなかったです。

菊池:そうだったんですね。

寺島:小さい頃は見てましたけどね、家の外でやってましたけど。丸太運んでんなーみたいな(笑)

一同:(笑)

寺島:今みたいにバンバン機械動かしてるとかじゃないので、昔はですね。

菊池:それこそ丸太の状態での取引ですもんね。

寺島:そうです。あとはさっき言ったように杭の先を尖らせるくらいしかやってなかったので。チェーンソーの音とかそういうのしか聞こえてなかったですね。

(2024年、仙台市泉区、寺島材木店にて行ったインタビューから抜粋したものです)